[カザヒシのメモ帳]
ラスレオ大聖堂にある図書館で、詳しい話を聞くことになった。 不気味な人は言っていた通り学者で、あらゆる研究をしているらしい。 モンスターの生態、宗教や文化、地理学、考古学……とかなんとか、とりあえずいろいろだ。
写本の仕事や、自ら筆をとり本を書く仕事のみならず、医者としても働いているらしく、何かと忙しい。 外に出て直接調査したい事柄はたくさんあるが、その暇はあまりないという。 そこで走ることが趣味の私に、自分の代わりに足になってくれ、ということだった。
「でも先生、素人の私が走り回るだけで大丈夫なんですか?」
医者で学者で作家その他を兼ねるその人を、私は自然と『先生』と呼んでいた。
「基礎的なことは教えますし、あなたはいい助手になってくれるかもしれない、と思うのです。 . 相応の報酬は出しますから、ひとまずはお金目当てでも構いませんよ」
助手、と言われても、学者の真似事すらしたことのない私に務まる役目なのかは疑問だった。 実際走り回るだけでいいなら私にとってはあまり普段と変わらないし、 それでお金がもらえるというなら……そんなありがたい話はない。
学者の助手の見習い、とでもいうのだろうか? 私はその役を受けてみることにした。 そしてこのメモ帳を……メモ帳と呼ぶには随分しっかりしているこれを受け取った。
「見たもの、聞いたもの、気づいたこと、感じたこと、気になったこと。 . どんな些細なことでも構いません。フィールドワークに出たら、それに書いてください。 . 何も書かない、というのが一番良くない。とにかく現地に行って、書くことを意識してください。 . 記憶というものは不確かで曖昧なものです。 . さっきまで見えていたものでも、後ろを振り返った瞬間に忘れてしまっているかもしれない。 . それに……あなたにはもう一度、世界を見てもらいたいのです」
「もう一度世界を見る?」
「そうですね……では、ひとつお伺いしましょう。 . この大聖堂の図書館に来る時、アルターの正面にある石板を見ましたね? . あの大きな石板、今まで何度も目にしたことはありませんか?」
「この島に来てから、結構経ちますから…… . それはもう、何十回どころではないくらいには見ていますよ。当然でしょう?」
「そうでしょう。では、そのメモ帳にあの石板に書いてあるものを書いてみてください」
「へ? いや、書けと言われても、読める文字ではないのですが……」
「何十回も見たものなら、文字であろうとなかろうと、書けるでしょう?」
と、言われて、必死であの石板を思い出しては見るものの、結果は目に見えていた。
何も書けないのだ。
確かに私はあの石板を何十回、下手をすれば何百回も視界に入れているだろう。 何度かは、そこに何が書いてあるかを見たような気もする。 でもそれが『私に理解できないもの』であることを知ってから、視界に入っても、見えてはいなかった。 諦めた私が何も書けないと白状したら、先生は言った。
「あなたが知っていると思っていたものを、今私が知らないものに変えてみせました。 . 石板に何が書いてあるか、あなたなら準備運動にもならない距離でしょう。 . さぁ、あなたの知っている世界を、もう一度見てきてください。 . 私に言われなくても、こういったことができるようになれば…… . あなたはきっと、立派な助手になってくれるでしょう。 . 戻ってこられたら、しばらく座学で基礎的なことを学んでいただきましょうか」
『もう一度世界を見る』
それはつまり、今まで私が見てきたはずの景色を、しっかりと観察することなのだ。 ただの景色でなく、背景でなく、そこに何が、なぜそこにあるのかを知ることなのだ。
こうして私はこの時から、常にこのメモを片手に、自分の中の『当たり前』を問うことにした。
もう一度、世界を見るために。
[caption id="attachment_582" align="alignnone" width="300"] ビスク中央エリアの石板[/caption]